2012-01-01から1年間の記事一覧

つづき

慶長年間のころより、下高野村の小谷堀の開拓に従事した武士は高橋を中心に野口、上原、小林、鈴木、日下部の各氏であったという。 まとめると、公に、孔王部(部名)→高野(名字、在名、孔王部の仲村里の里正の一族)→出戸(同左)→高橋(苗字)を名乗る。 …

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高野郷者鎌倉街道要津、奥州口の咽喉也、表宿・裏宿・浅間下・産女ヶ井・出戸・首部・松台・杉門辺迄、人家建続く。永徳二年(1333)出戸氏文・阿弥陀寺伝等により書記す」 了。 次回は、現在、高野郷に住む人々の苗字。

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爾(そののち)下総国葛飾郡下川辺庄高野郷阿弥陀寺、途中御参詣有り、出戸七郎右衛門豊茂(俊光孫)等一族同伴して路次にて迎謁し、阿弥陀寺に案内奉る。爾出戸一族分倍合戦に於て武運拙く陣亡す。永徳二年(1382)、出戸嫡孫兵庫介高弘(豊茂孫)等は発願主と…

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建治二年(1276)六月朔日夜半に木立郷の衆徒人々は、阿弥陀寺を不意に取り囲み、本家出戸左衛門太郎俊光(為業孫)・一族出戸右兵衛尉憲政等は馳せ付て防戦す。新田小太郎義貞朝臣は元弘三年(1333)年五月八日に利根川を渡り武州に乱入す、 つづく。

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阿弥陀寺大檀那出戸左衛門佐親実は、大徳上人を南都に於て迎る、親実者孔王部堅後裔也、大徳は永久三乙未年三月三日示寂す。寿永二年、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等は一用上人を阿弥陀寺に請ふ。元久元甲子年十月阿弥陀寺檀那出戸又太郎為業(為隆子…

孔王部族名字、高野氏、出戸氏

孔王部族名字、高野氏、出戸氏、永福寺龍燈山伝燈記「・・・・出戸・今出戸耕地也に道康と云う主あり、阿弥陀寺大檀那にて此寺開基、孔王部堅七代孫也。のちに阿弥陀寺大檀那出戸左衛門佐親実は孔王部堅後裔也」とある。阿弥陀寺は今の永福寺である。

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堅の嫡男を高毛野と云ふ、空智沙弥と号し、天平勝宝五年死す。高毛野の子宗麿は信暁沙弥と号し、自宅を捨て梵刹と為し、阿弥陀寺と号す、延暦元年死す。宗麿の子貴は智満沙弥と号し、天長五年死す。堅五代の孫高野成房(貴の子)は天安元年死す。高野成房の…

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元明天皇御代和銅三庚戌年、下総国住人孔王部堅は一家五十口を引き連れ此島に移住す。専ら荒茫を開発す。堅は後剃髪授戒し慈航沙弥と号し、天平三辛未年七月十五日示寂す。堅の室は瑞枝売と云ふ、大島郷長孔王部醜男の姉也(戸籍の志己夫)、天平勝宝四年十…

永福寺龍燈山伝燈記

永福寺龍燈山伝燈記「顕宗天皇御宇三年丁卯、勝鹿宿祢弘方海と云人、此島に狩猟の時、倭建命の故事に拠り初めて高野と名づく。上古薩天ヶ島(幸手ヶ島)と呼也。爾来、多年所を経て、入江水退し涸り、州寄り来たり土地次第に広くなり、四方より移り住む人多く…

戸籍の仲村里の孔王部鹽の史料は杉戸町永福寺に存在する

最後に、戸籍の仲村里の里正孔王部鹽が下高野村(杉戸町)の永福寺龍燈山伝燈記に、孔王部堅として登場する。 鹽は堅が正字かもしれない。 以下、数回に分けて、そのまま載せる。

甲和里

甲和里、吾妻鑑・治承五年閏二月二十三日条「高野渡しは、東山道の重要な駅で河曲(こうわ)駅は古代の甲和里の遺名なり。・・・」とある。 よって、高野渡しは大島郷の甲和里にあるとなる。 この甲和里(上高野村(幸手市))は葛飾柴又から約40kmの地である…

古の上高野村(幸手市)の高野渡し

高野渡し、上高野村(幸手市)条に「今村の境堺を流るゝ古利根川は、古の高野川にして、そこに設しわたりを高野渡と呼びしが、後この処に橋を架せしと見え、鎌倉称名寺元亨四年(1324)文書に下総国高野川橋事先例に任せて沙汰致す可しとのせ。・・・」と、 古の…

東山道の駅、河曲駅

律令制度下に「武蔵国と上野国を結ぶ東山道に下総国葛飾郡河曲駅・馬五疋、次の駅に同国同郡浮島駅・馬五疋」とある。 河曲(こうわ)駅は、下総国にありながら、武蔵国と上野国を結ぶ、東ではなく、北へ向かう東山道の途中にあることに注目したい。 つぎに、「…

下総国葛飾郡大島郷の史料

下総国葛飾郡大島郷、和名抄に、八島郷を載せ大島郷と。 下高野村(杉戸町)永福寺伝に「神亀三(726)丙寅年八月、行基菩薩・道俗弟子数人を伴い武州百間郷佐加狭井浦より大島郷に着給ふ。大島郷の島形・大八州に似る大島也、是以来此島名大島、又八島と云。此…

三回に分けて嶋俣里は柴又ではないことを証明する。

大島郷と、甲和里、仲村里、嶋俣里のどれかが載る史料が存在すれば、地理的に全く異なる嶋俣里が柴又ではないことを証明できる。 実に、大島郷と甲和里が載る史料が存在する。 下高野村(杉戸町)永福寺伝と律令制度下と吾妻鑑・治承五年閏二年二十三日条で…

大島郷の新地域の根拠

数回に分けて、正倉院文書の養老五年下総国葛飾郡大島郷とその戸籍に載る地名の現在地を提唱する。 つまり、甲和里は上高野村、仲村里は下高野村及び大島村、嶋俣里は柴又ではなく、鷲宮村字穴辺の大島郷の地域である。

下総国猿島郡の孔王部

下総国猿島郡の孔王部、 延暦九年(790)十二月紀に「下総国猿島郡主帳正八位上孔王部山麻呂」と見える。 この地は大宝八幡社(下妻市)享徳五年(1456)鐘銘に下州幸島郡穴太辺星智寺とあり。今の茨城県猿島郡境町伏木の星智寺。 よって、伏木村字穴太が孔王部の…

武蔵国孔王部直

下総国孔王部直(あたへ)、武蔵国造と同族の下海上国造の後裔は下総国の孔王部族を支配管理して孔王部直を賜る。 古代氏族系譜集成に「兄多毛比命(武蔵国造、奉祭氷川神)弟の忍立毛比命(上海上国造)―五十狭茅宿祢(上海上国造)―久都伎直(応神朝、下海…

孔王部(アナホベ)について

孔王部(アナホベ)、穴太部(アナホベ)、穴穂部(アナホベ)に同じ。この氏は租税及び兵役を果たすために設けた御名代部の組織名(公文書に登場する名前)であった。 本名の苗字ではない。 当時の権力が代わった現在では下総国猿島郡、葛飾郡等に孔王部を…

穴穂部とは

穴穂部(アナホベ)、第二十代安康天皇は近江国穴太村に穴穂宮を建て穴穂天皇と称した。崩去後に弟の第二十一代雄略天皇十九年紀に「詔して穴穂部を置く」とあり安康天皇の御名代部を設置した。諸国の穴族をもって組織した。朝鮮半島の阿那加耶(漢(安邪、あ…

穴辺(アナベ)について

穴辺(アナベ)、埼玉県鷲宮村字穴辺、秩父郡薄村字穴辺。穴生(あのう)は、あなお、あなほの訛で、穴太(あなほ)に同じ。穴部(あのふ、あのう)の部に辺を書いたためにアノベ、アナベと呼んだ。熊川(くまなれ)出身の穴(阿那)族は近江国滋賀郡に渡来…

阿那志とは?

阿那志(アナシ)とは? 阿那(穴)族の首領をいう。 ちなみに、阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志という。 穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村という。 近江国安那郷(草津市穴村)に安羅(アラ)神社がある。児玉…

再度、「下総国葛飾郡大島郷戸籍「」の嶋俣里は柴又ではない、と提唱する。

本日から、再度、埼玉苗字辞典の孔王部の項を抜粋して、正倉院文書「養老五年(721)下総国葛飾郡大島郷戸籍」にある嶋俣里は従来説の柴又ではない、と提唱します。 映画「男はつらいよ」の主人公と妹は、戸籍に「刀良」と「佐久良賣」とでてきても登場する地域が異な…

国名の前、後について

越前、越中、越後、豊前、豊後、筑前、筑後の国名の、前、後は 百済国の五部制を参考に命名したと、思われる。 以上でこの項、了。

本日は、日向国の由来について

本日は、日向国の由来、読み方がいろいろある。 ひゅうが、ひうが、ひなたなど。 ひょうが、ひうがは近いので、ひうがとは日宇賀で、百済出身の海洋民の集落をいう。 ひなたは鄙(比奈)田で、比奈は古代朝鮮語で、田舎(いなか)をいうから渡来人の集落をい…

本日は、曽ノ国の由来について

本日は、曽ノ国。以前のツイートと重複しているかもしれません。 韓国の素那羅(そなら、すなら、沙羅国)、現在の慶尚南道の金海の地。 この地出身の人々は、古代苗字の佐藤、曽我、染谷、曽野と名乗った。

本日は、古代の肥前、肥後の国の由来について

本日は、古代の肥前、肥後の国由来。熊本の熊(くま)←肥(くま)←肥(ひ)←火(ひ)で、百済の別名、火の国。 肥前、肥後は百済に由来する。 古代苗字に、片山(かたやま)←火田山(かたやま)←火田山(ひたやま)、樋口←火口で、百済国出身の鉱山鍛冶集落…

古代苗字月について

本日は、古代苗字の月(つき)について、九州の国名の筑前、筑後は月族に由来すると思われる。佳字に、筑(つく、ちく、く←き、ち←つ)、槻、附、都幾、知久等。百済族の月族は渡来して、月の付く苗字を名乗る。筑井、津久井、筑紫など。ちなみに越前、越中…

葉木国から渡来した人々の古代苗字

本日は、豊国の別名、葉木国から渡来した人々の名乗った古代苗字について、 葉木→波(は)木→波(なみ)木→並木(なみき)と当て字した。 よって、葉木国からの渡来集落を並木といった。 また、葉木→箱(はこ)と当て字して葉木国から渡来集落を箱田といい、…

古代苗字について

韓国が当時、豊国と呼ばれていたいた頃、日本列島に渡来してた人々は、古代苗字に豊を付けた。豊田(とよた)、豊島(とよしま)は、豊族の集落をいう。現在の福岡県の一部、大分県は、豊前ノ国、豊後ノ国であった。つづく。