2012-12-12から1日間の記事一覧

つづき

堅の嫡男を高毛野と云ふ、空智沙弥と号し、天平勝宝五年死す。高毛野の子宗麿は信暁沙弥と号し、自宅を捨て梵刹と為し、阿弥陀寺と号す、延暦元年死す。宗麿の子貴は智満沙弥と号し、天長五年死す。堅五代の孫高野成房(貴の子)は天安元年死す。高野成房の…

つづき

元明天皇御代和銅三庚戌年、下総国住人孔王部堅は一家五十口を引き連れ此島に移住す。専ら荒茫を開発す。堅は後剃髪授戒し慈航沙弥と号し、天平三辛未年七月十五日示寂す。堅の室は瑞枝売と云ふ、大島郷長孔王部醜男の姉也(戸籍の志己夫)、天平勝宝四年十…

永福寺龍燈山伝燈記

永福寺龍燈山伝燈記「顕宗天皇御宇三年丁卯、勝鹿宿祢弘方海と云人、此島に狩猟の時、倭建命の故事に拠り初めて高野と名づく。上古薩天ヶ島(幸手ヶ島)と呼也。爾来、多年所を経て、入江水退し涸り、州寄り来たり土地次第に広くなり、四方より移り住む人多く…

戸籍の仲村里の孔王部鹽の史料は杉戸町永福寺に存在する

最後に、戸籍の仲村里の里正孔王部鹽が下高野村(杉戸町)の永福寺龍燈山伝燈記に、孔王部堅として登場する。 鹽は堅が正字かもしれない。 以下、数回に分けて、そのまま載せる。