本日は、古代苗字の村田、田村の起源について

古代苗字の村田と田村の起源は茂木和平古代苗字起源説により説明できます。
村(むら)田←室(むろ)田←茂呂(もろ)田からま、ら行が母音転訛し茂呂、田は共に集落をいうから単に渡来人の集落、
また、田村←田室←田茂呂で田(多)族、百済出身の集落を意味し、
それぞれ、村の田んぼ、田んぼの村の意味ではない。

本日は、古代苗字の〇〇宮の起源について

本日は、古代苗字の〇〇宮の起源についいて、
〇〇宮は、〇〇神社の意味ではない。
〇〇宮←〇〇見(味)谷(〇〇み_や)である。例として、小宮←小見谷←胡海谷で、渡来人(胡)の海洋民(海)の集落(谷)をいう。
大宮←大見谷で、大族(百済出身)海洋民の集落をいう。

つづき

慶長年間のころより、下高野村の小谷堀の開拓に従事した武士は高橋を中心に野口、上原、小林、鈴木、日下部の各氏であったという。
まとめると、公に、孔王部(部名)→高野(名字、在名、孔王部の仲村里の里正の一族)→出戸(同左)→高橋(苗字)を名乗る。
現在、孔王部に属した他の人々の子孫も公に苗字を名乗っている。

つづき

高野郷者鎌倉街道要津、奥州口の咽喉也、表宿・裏宿・浅間下・産女ヶ井・出戸・首部・松台・杉門辺迄、人家建続く。永徳二年(1333)出戸氏文・阿弥陀寺伝等により書記す」
了。
次回は、現在、高野郷に住む人々の苗字。

つづき

爾(そののち)下総国葛飾郡下川辺庄高野郷阿弥陀寺、途中御参詣有り、出戸七郎右衛門豊茂(俊光孫)等一族同伴して路次にて迎謁し、阿弥陀寺に案内奉る。爾出戸一族分倍合戦に於て武運拙く陣亡す。永徳二年(1382)、出戸嫡孫兵庫介高弘(豊茂孫)等は発願主と為し、御堂僧房を再建す。
つづく。

つづき

建治二年(1276)六月朔日夜半に木立郷の衆徒人々は、阿弥陀寺を不意に取り囲み、本家出戸左衛門太郎俊光(為業孫)・一族出戸右兵衛尉憲政等は馳せ付て防戦す。新田小太郎義貞朝臣は元弘三年(1333)年五月八日に利根川を渡り武州に乱入す、
つづく。

つづき

阿弥陀寺大檀那出戸左衛門佐親実は、大徳上人を南都に於て迎る、親実者孔王部堅後裔也、大徳は永久三乙未年三月三日示寂す。寿永二年、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等は一用上人を阿弥陀寺に請ふ。元久元甲子年十月阿弥陀寺檀那出戸又太郎為業(為隆子)は発がん主と為し阿弥陀寺堂坊を再建す。