孔王部族名字、高野氏、出戸氏

孔王部族名字、高野氏、出戸氏、永福寺龍燈山伝燈記「・・・・出戸・今出戸耕地也に道康と云う主あり、阿弥陀寺大檀那にて此寺開基、孔王部堅七代孫也。のちに阿弥陀寺大檀那出戸左衛門佐親実は孔王部堅後裔也」とある。阿弥陀寺は今の永福寺である。

つづき

堅の嫡男を高毛野と云ふ、空智沙弥と号し、天平勝宝五年死す。高毛野の子宗麿は信暁沙弥と号し、自宅を捨て梵刹と為し、阿弥陀寺と号す、延暦元年死す。宗麿の子貴は智満沙弥と号し、天長五年死す。堅五代の孫高野成房(貴の子)は天安元年死す。高野成房の男良康あり」
永福寺龍燈山伝燈記、了。
在名、高野氏へ、つづく。

つづき

元明天皇御代和銅三庚戌年下総国住人孔王部堅は一家五十口を引き連れ此島に移住す。専ら荒茫を開発す。堅は後剃髪授戒し慈航沙弥と号し、天平三辛未年七月十五日示寂す。堅の室は瑞枝売と云ふ、大島郷長孔王部醜男の姉也(戸籍の志己夫)、天平勝宝四年十一月十五日逝去し、法名を寂照尼と号す。
つづく。

永福寺龍燈山伝燈記

永福寺龍燈山伝燈記「顕宗天皇御宇三年丁卯、勝鹿宿祢弘方海と云人、此島に狩猟の時、倭建命の故事に拠り初めて高野と名づく。上古薩天ヶ島(幸手ヶ島)と呼也。爾来、多年所を経て、入江水退し涸り、州寄り来たり土地次第に広くなり、四方より移り住む人多く成り来る。孝徳天皇御代に大島之郷と称す。
つづく。

戸籍の仲村里の孔王部鹽の史料は杉戸町永福寺に存在する

最後に、戸籍の仲村里の里正孔王部鹽が下高野村(杉戸町)の永福寺龍燈山伝燈記に、孔王部堅として登場する。
鹽は堅が正字かもしれない。
以下、数回に分けて、そのまま載せる。

甲和里

甲和里、吾妻鑑・治承五年閏二月二十三日条「高野渡しは、東山道の重要な駅で河曲(こうわ)駅は古代の甲和里の遺名なり。・・・」とある。
よって、高野渡しは大島郷の甲和里にあるとなる。
この甲和里(上高野村(幸手市))は葛飾柴又から約40kmの地である。以上により、
葛飾柴又は大島郷の嶋俣里ではない、ことは明白である。

古の上高野村(幸手市)の高野渡し

高野渡し、上高野村(幸手市)条に「今村の境堺を流るゝ古利根川は、古の高野川にして、そこに設しわたりを高野渡と呼びしが、後この処に橋を架せしと見え、鎌倉称名寺元亨四年(1324)文書に下総国高野川橋事先例に任せて沙汰致す可しとのせ。・・・」と、
古の上高野村に高野渡しがあった。