2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

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磐城国の岡部氏、 愛媛県世田城で大館氏明と共に討死した岡部氏を武蔵国住人とする説が多いが、元弘三年十月石川義光軍忠状に登場する岡部又四郎一族の可能性もある。 この氏は石川郡に多く現存する苗字岡部氏である。

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岡部氏の本名、猪俣党岡部氏は岡部村を名乗った在名(名字)であって、本名(名字)ではない。 よって、現在岡部を名乗る、ほとんどの人は、猪俣党岡部氏の子孫ではない。 岡部村の現当主滝沢弥平家がその子孫で、畠山重忠妹である忠澄夫人は、実は、現在、…

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足立郡の清和源氏岡部氏、「日本洞上聯燈録」に見える。 猪俣党岡部氏に所属して岡部氏を名乗り、 足立郡内の岡部氏領(安行村)代官を務めたのであろう。

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忠興武家諸系図に「河原国、藤、分流」とある。 河原国は、北群馬郡榛東村の古地名か? 河原国を名乗った人の本名は、榛東村の本名岡部氏であろう。

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高麗郡日影郷の岡部氏、 我野郷岡部氏の新三郎員忠と同族。

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秩父郡我野郷の岡部氏、 古代以来の居住者。我野郷及び名栗郷一帯の鉱山師集団である。 榛沢郡より六弥太の一族在名岡部氏が管理者として移住し、後世、当地方古代以来の苗字岡部氏は忠澄を祖神として後裔と称する。 茂木和平氏は、名字(在名)を名乗る人は…

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榛沢郡矢島郷の領主岡部氏、 岡部系図に「岡部六野太忠澄―三代略―範澄―時忠―澄広―広家―政澄―忠清―清信―忠家―忠長―広房―房忠―忠勝(閑馬城主赤見氏からの婿、越前宰相忠直公の御先手)」、6代で一旦、10代で消え、忠となる。このころ、直系ではなく、名跡の継承…

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鍛冶統領の岡部氏。 非農民である木工、石工、鍛冶等を職とする集団の居住地を別所といい、関東奥州の鍛冶支配頭秩父(畠山)氏に属した岡部氏は足立郡別所村六ヶ村を支配管理した。

岡部氏

岡部、猪俣党の岡部六弥太。 榛沢郡上岡部村より起る。古墳の地は普済寺。 小野氏系図に「猪俣忠兼―岡部六太夫忠綱―太郎実綱」、太郎実綱の弟三郎清綱、その弟五郎国綱、その弟六郎行忠―忠澄(六弥太、一の谷合戦、平忠教朝臣を討取る)。

太田氏流のまとめ

太田氏流のまとめ、 同じく太田を名乗っていても、藤原秀郷流、清和源氏、鎌倉の三善姓、高築姓出身などがある。 太田道灌は、清和源氏流の系図になっているが、清和源氏太田氏の太田を名乗るもとである太田郡が丹波国にないとなると、 後世に権力を持った者…

太田氏の本名

太田氏の本名、 寛政呈譜に「源三位頼政―八代略―資清(号道真)―資長(入道号道灌)」、と。資長は太田潮田系図の持資法名道灌とは別人説がある。 入間郡越生郷小杉村に隠居。小杉村に吉沢氏二十六戸、太田氏なし。太田氏後裔の伝承を持つ吉沢氏の出身で相模国…

太田氏の家紋

太田氏の家紋、 かぶら矢、太田源次郎 かぶらや左前、岩槻衆、太田美濃守 丸に桔梗、遠州掛川藩主太田氏、旗本高築姓太田氏。

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島津衆太田新次郎、 八貫五百文・河越鴨田、以上二十二貫五百文、と。 島津系図にある島津延久・太田を称すとある。この子孫か。

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松山衆太田十郎兵衛、 二十七貫七百七十九文・入西郡堀籠、と。 太田三楽の孫、政尚である。 初北条家に仕え、後水戸に留て所々の城番を勉む。

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松山衆太田豊後守、 九十五貫文・吉見郡大串之内、三十一貫九百文・比企郡戸森、都合五百二貫九百二十二文、此外九十貫文・榛沢郡高島郷寄子給、と。 鎌倉の三善姓一族か。 そうであると、子孫がいれば、現在、在名の太田を名乗っていると思われる。

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太田兵庫助、百貫文・太井内。 快元僧都記に「天文二年三月、太田兵庫助正勝・太田又三郎は、北条氏綱の命により鶴岡造営の奉行を営む」、とある。 鎌倉問注所の子孫で、三善姓か。

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太田大膳亮、 鎌倉浄智寺鐘銘に「天文十九年閏五月十八日、当修造奉行太田越前守三善宗真」、とある。大膳亮は宗真の子である。三善姓太田氏は、備後国世羅郡太田郷より起る、在名つまり名字を名乗っている。

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太田四郎兵衛、七十貫文・東郡(高座郡)坂戸之内、十五貫文・於江戸諸侍触致之付而役出銭。 江戸城主大和守資高の子?。

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太田源七郎、 三十六貫五百文・江戸廻目黒・同桜田、太田新六郎の兄弟源七郎景資。

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太田新六郎。江戸城主の太田康資、源六郎。 当初上杉の家老で、のち北条氏綱に内通し、恩賞が軽いことを恨に含み、太田美濃守入道三楽斎と密談し、里見義弘へ内通して反逆。 娘於梶・東照宮妾、 息子重正の子重宗遠州掛川藩主祖。

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太田源五郎、 二百貫文・大住郡小稲葉。太田資正(法名三楽斎道誉)の子、 源五郎氏資法名道也。 足立郡風渡野村(大宮市、現、さいたまし市)曹洞宗大円寺の開基。

本日からしばらく、小田原所領役帳の太田氏

太田美濃守(三楽斎)。 道真―資常(兄道灌)―資雄―資広―資頼―資時―資正(美濃守、三楽斎、兄資時は岩付、松山に在城)―資房(或氏資、疑なきにあらず)―氏房。

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高築姓太田氏。 河越城主太田備中守資清の家士高築次郎左衛門尉は与野笹目両郷を拝領し、その孫は太田の名字を与えられ、太田次郎左衛門という。 子孫東照宮に仕える。

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岩附城主の太田氏、太田潮田系図に「持資(道灌)―資家―某―源六(資頼相続す)。某備中守の弟資頼―某、其弟資正―氏資、其弟政景(梶原源太)、其弟資武、其弟資忠(潮田出羽守)」 系図の中、某とあったり、男子直系では続かず、兄弟で継いでいるが、この兄弟…

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清和源氏太田氏。寛政呈譜に「源三位頼政―仲綱―広綱(頼政男)―隆綱(丹波国五箇庄)―国綱―資国(丹波国太田郷の太田を称す。相模国にうつる)―資治―資兼―資房―資清―資長(道灌)」 太田氏の系図はすべて道灌(歴史上有名人)につながる。 丹波国に太田郷はな…

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江戸城主太田氏、 源姓太田氏系図に「資長(号道灌)―資康―資高―康資(娘於勝は家康の妾)―資綱―資宗(遠州浜松三万五千石)、弟正重―資正(仕水戸家)」