つづき

つづき、
相承院文書に「弘安六年十二月二十三日、鶴岡八幡宮供料所下野国足利荘粟谷郷寄進状焼失のことにつき足利家時に訴ふ。・・・」とあり、足利系図によると、父頼氏が弘安三年四月七日卒であるから、(家督は譲っていないので)これでは父と同年輩になってしまう、と茂木和平氏は指摘している。
脱線しますが、当時の歴史を語る時、坂東八平氏という言葉は一人歩きしていると、思います。茂木和平著埼玉苗字辞典によりますと、茂木和平氏は、これらの人々は、平氏の子孫ではない、断言している。平氏と婚姻関係(平氏から婿に入る、あるいは、姫を嫁に娶るなど)がある可能性はあります。